不調

ここのところ心身ともに不調で、体を全てリセットしたいような思いに囚われている。

体で言えば、頭痛がひどい。偏頭痛薬を毎日のように飲んでいるし、その副作用で眠い。こんな状態では日常生活も楽しめないし、仕事にも支障がでる。

もっとまずいのは心の状態。別に鬱っぽいとか、気分が落ち込むっていうわけではないが、何にでもイライラしてカッとしてしまう。その度に自分はなんて心が狭い人間なんだろうと思う。あとから反省する。下手すると人前で怒鳴ることもおかしくないような心持ちになってしまう。なんか自分が自分でないような気がする。自分ってこんな人間だっただろうか。

頭痛と心の状態はリンクしていて、頭が痛いと短気になる。あとは、もうどうにでもなれって叫びたくなる。ずっと患っていた頭痛が精神にも影響を及ぼしてきたのだろうか、、、。

 

あー、すべてを一度リセットしたい。仕事を思い切ってやめて、毎日規則正しい生活をして、思う存分に運動して、読書して、勉強したい。そして身体を正常な状態に戻したい。毎日頭痛薬を飲みながら仕事をするなんて異常すぎる。

 

そもそもなんでこんなに仕事にしばられているんだろう。別にそんな仕事は好きじゃない。そんな仕事ならやめられるだろう。給料が安定していて将来が約束しているから?確かにそういう側面もあるような気がする。いや、ぜったいそうだ。この仕事をやめたらこんな条件のいい仕事には二度とつけないって思っている。

自分の中での恐怖は仕事をやめたら食いっぱぐれるってこと。でも貯金はそこそこあるから節約すれば3年くらいはもつだろう。

 

 

しがない1日

昨日まで出張していたので今日は代休。

午前中は頭痛のクリニック行き、ストウブで野菜と鶏肉の蒸し煮をつくり、午後はジムに行った。夜は「god's own country」という映画を観てきた。

 

休日といえば休日なのだが、どうしても職場のメールをみてしまう。

そんな時に限って、人の心を乱すようなメールが入っていることが多い。

自分の場合、基本的に被害者意識が生じてしまう性格のようで

「なんでこんなお願いを自分にしてくるんだろう」という悲しい気持ちが生じたあとに、相手への怒りの感情が湧いてきてしまう。

不思議なもので、そういったことが何度もあるうちに怒りやすくなってきてしまった。おそらくそういう思考回路ができあがってしまっているんだろうと思う。

一番悪いのは、我を忘れて怒りのメールを返信してしまうこと。一度書いて結局送らないということが多いのだが、誤って送ってしまうともう災難。そういう時は一呼吸を置くと落ち着いた気持ちになり、冷静に判断できるようになる。

ただ、あまりにも怒りやすくなってしまったので何とか感情的にならない方法を身につけられないかな、と思っている。一瞬でもカッとなると、本当に精神に悪い影響を及ぼしているように感じるし、身体の不調にもつながる。よって、早速本屋に行って「感情的にならない気持ちの整理術」という本を買ってしまった。役立てばいいのだが。

 

夕方は「god's own country」という映画を観てきた。ジャンルとしてはLGBT映画に入るのだろう。てか、そんなジャンルあるのだろうか。普通にヒューマンドラマとかでよいかと思う。イギリスの牧場で働く主人公。身体が不調な父親が築いてきた牧場を一人で何とか経営している。そこにルーマニア人の青年がやってきて、一週間のみ牧場を手伝うことになる。主人公はルーマニア人の青年のことを「ジプシー」と読んでバカにすがるが、次第に二人は心を惹かれていくといった物語。この映画は本当によかった。がさつで不器用な主人公。牧場を継ぐという重圧もある。感情を素直に表現できないが、相手の青年のことが好きになっていく過程は心がときめく。この映画にはsorryや、I love youも出てこないが、そこがまたよかったと思う。うまく説明できないけど。

 

もう自分はこんな恋はしないんだろうけど、人生って素晴らしいなと思わせてくれる映画だった。

 

あなたが気がつかないだけで神様もゲイもいつもあなたのそばにいる

日本で初めてゲイであることを公表して牧師になった平良愛香さんの著書。

前半はゲイの牧師になるまでの経緯、後半は性と差別に関する特別講義で構成されている。

 

ところどころユーモアを交え易しい文体で書かれており、平良さんの温かい人柄が伝わってくる本。

 

この本を読んで思ったのは、ゲイである自分が知らず知らずのうちに他の人を差別してしまう可能性があるということ。

もちろん、ゲイであることと人を差別しないということに直接の関係はないのだが、自分自身は人に対して差別的な感情を持たないように意識してきたように思う。

 

しかし、自身の生活を振り返ると、実際は日常生活の中で自分の気に入らない行動をしている女性をみて「だから女は、、、」と思うこともある。

 

平良さんによると差別というのは「そのグループを「こういうもの」と決めつけ、しかも優劣をつけること」であるから、その意味では自分も日常的に差別を行なっていることになる。それは人の性として仕方がないかもしれない。しかし、大切なのは「自分が差別する側になっている」ということを自覚することだと平良さんは言う。そして、その通りだと思う。

 

この部分を読んで、村上春樹の『ノルウェイの森』の「私たちがまともな点は」「 自分たちがまともじゃないってわかっていることよね」という台詞を思い出した。

 

人は誰もが自分は普通だ、まともだと思いながら日々を過ごしがちだ。それは自分という存在を確かにするために自然なことかもしれない。自分は普通だ、と思うことは日々の生活を支障なく送っていく上での原動力となる。しかし、自分もある視点から異質な存在になるという想像力をもつことは大切ではないか。

 

もう一つ、印象に残ったのは、ある教会が「ここの教会には同性愛者はいません。来たら前向きに考えたいと考えています。」と言っていたエピソード。協会に同性愛者がいないのではなくて、当事者がただ秘密にしているか、同性愛者に対してオープンな雰囲気で同性愛者が来ないだけなのに「来たら考える」というのは冷たい態度ではないか。

 

このことは、自分自身の仕事のことにも言えるのではないかと思う。社会にどのような悩みや難しさを抱えている人がいるかを知り、その人たちをシャットアウトしないような仕組みづくりを考えていくことが大事だと思う。

 

牧師だからと言ってキリスト教を無批判に受け入れる、信じるのではなく、批判的に考え、発展途中の宗教であると言っていることにもとても好感がもてた。

 

 

あなたが気づかないだけで神様もゲイもいつもあなたのそばにいる

あなたが気づかないだけで神様もゲイもいつもあなたのそばにいる

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

一人ゲイバーデビュー

今年の目標の一つに「一人で(ゲイ)バーに行くこと」を挙げていた。しかし、一人でゲイバーに行くことはなかなか勇気のいることである。

 

自分の中のイメージでは、第一に、ゲイバーは排他的である。常連が幅を利かせ、新参物が入って来るとよほどのイケメンでなければ話しかけてもらえない(あくまで脳の中のイメージです)。

 

また、ゲイバーという空間は必然的に自分が性的対象として評価されるような気がしてしまい、自分が思う完璧な状態の自分でなければ居心地が悪い。自意識過剰である。

 

逆を言えば、自分が求めているのは、気軽に話しかけてくれ、ゲイ以外も来るバー。つまり出会い目的ではないバーだ。まあ、ほとんどのバーは出会い目的ではないとは思うが。

 

そんなバーあるのだろうか、と思っていたところ、ふとしたことで気になるバーが見つかった。しばらくの間気にはなりつつもなかなか足が向かなかったのだが、恋人が不在で手持ち無沙汰な夜、意を決して行ってみた。時々このような勇気が出る夜がある。

 

店の前にも到着したものの、ここからが問題である。ゲイバーというのはたいていの場合、中の様子が外から見えない。よってお店の中にどのくらいの人がいるか見当がつかない。入ってみて席があいていなかったらどうしよう、、、ごめんない。といって出るべきか、、などと考えてしまうのである。結局お店の前で10分ほど逡巡した後、ここで入らなければ何も変わらない!という強い想いで扉を開けた。

 

中にいたのは女性数名と韓国人のゲイの子だった。最初は緊張しつつも、お店の人が適度に話しかけてくれた。自分から行動を起こさなければと思い、隣の女性に話かけたりして、しばらくたつと居心地のよい空間になっていた。このお店は年代、セクシャリティを問わずさまざまな人たちがくるお店だった。帰るころにはとても楽しくなっていて、翌日もなんだか楽しい気分で過ごせたのであった。

 

自分はゲイバーに何を求めていたのだろう。おそらく、頭の片隅にはちやほやされたいという思いもあるのだろう。しかし、目的はもっと別のところにある気がする。単にお酒を飲むのであれば恋人とも、友人とも飲めるはずである。でも、やはり心の中には、色々な人と知り合いたいという思いがあるのだと思う。色々な人と知り合うには、別にゲイが集まる場所に限定する必要はないだろう。でもたいていの場所においてはやはり人と会う時にゲイということをまず隠してしまう自分。そのまま隠していくのは結構面倒。できるものなら最初からゲイってことをおおっぴらに、何一つ隠さずに人と接したいなと思う。それが自然にできる人もいるのだろうけど。その点、ゲイバーは最初からセクシャリティを隠す必要がない。

 

その後、そのバーにはもう1回行った。今更ながら、できることならいろいろな人とあって、いろいろな考え方を知っていきたいなあと最近考えている。33歳が言うことじゃないかな。笑

読んだら忘れない読書術

私は本を割と読む方だと思う。割と、というのは日本人の47.5パーセントが一ヶ月に一冊の本も読まないという文化庁の統計と比較して、という意味である。

 

ジャンルは小説、エッセイ、たまに自己啓蒙本という具合である。

 

読んでいる時はそれなりに楽しい。ところが、読後、友人にその本のことを説明しようとしてもできないのである。つまり、すぐ内容を忘れてしまう。これを自らの記憶力の悪さや頭の悪さによるものだと思っていた。

 

そんな時に本屋で目に止まったのがこの本。

 

著者によると記憶に残る読書をするためには、読後1週間に3回アウトプットする事が大事らしい。それにより、脳がアウトプットした情報を「何度も利用される情報」として判断する。アウトプットというのは、友人に本を紹介する、感想を書く、レビューを書くといったことである。

 

せっかく読書をしてもその内容が記憶に残っていないということは、それは「知識」として自分の中に定着していない、無意味な自己満足の読書であると筆者は言う。この部分がグサリと突き刺さった。

 

ということで、定期的に本の感想をブログにアップしていきたいと思います(単純)。

有吉佐和子のすばらしさ

三連休最終日。といっても私の職場は土曜日出勤だったりするので、実際は二連休。本当は今日も出勤だったのだが、適当な理由をつけて休んだ。祝日に働くなんてナンセンス。

 

せっかくの休み。何か特別なことをしようと意気込むのだが、暑さと冷房にやられて何もできず。最近購入した無印の身体にフィットするソファから動けず。朝7時に起きたのはいいが、気がついたソファで2時間も寝ていた。

 

かろうじで体を起こし、最近はまっている有吉佐和子の小説を読む。有吉佐和子は友人に進められて最近読み始めたのだが、おもしろい!最初は「悪女について」を読み、連休中は「恍惚の人」を読んだ。「恍惚の人」は一家のお爺さんが呆け始め、それを介抱する嫁の話。自身の仕事や旦那や息子の世話をしながら介護もしなければならない主人公の女性は、自分をいじめてきた義父の介護に反発(?)を覚えつつも、テキパキと役割をこなしていく。最初は愛情なんてなさそうだったが、だんだんと情を持つようになる心の動きがおもしろい。この小説を読んだ時には、人はあーだこーだ実生活の細々したことに文句を持ちがちだけど、とにかく自分の役割っていうかできることをこなしていくことが大切だと思った。ノルウェイの森のみどりの父親の介護に対して言った「口でなんてなんとでも言えるのよ。大事なのはウンコをかたづけるかかたづけないかなのよ」 に通ずるものがある。1970年代にこんな話が書けた有吉佐和子ってすごいな。

 

あとは恋人と猛暑の中散歩をして香港料理のお店に行ったり、しゃぶしゃぶ温野菜に行ったり。何もしてないような休日だったが意外と楽しかったかも。

 

明日からも頑張りましょう。この猛暑の中生き延びていけるかわりと真剣に心配だ。

 

 

 

モストボーリングナイト

うー。だるい。昨日は10代からの友人に誘われ新宿で飲んだ。 前日も同僚に誘われ新大久保でイイダコサムギョプサルやカキ氷を 食していた私の胃腸は危うい感じ。ただし人生を楽しむため、 「飲みの誘いは断らない」という決めた私に「断る」 という選択肢はない。新宿に到着次第薬局で胃薬を購入、 コンディションを整える。

 

19時過ぎに新宿で待ち合わせ。彼は前回(おそらく3~4か月前 )会った時よりかなり太っていた。「大きくなったね。」 と言う私に「鍛えているんだ。」と返す彼。いや、 ただ飯食って太っただけだろ、と心の中で悪態をつく。 なんで友人に対しても悪態つくんだろう。本当性格悪い。

 

よく行く韓国料理屋(また!)につくと2時間の飲み放題を注文し 、息つく間もなく生ビールを飲みほす彼。 その後の記憶は飛んでいるが、黒豆マッコリを飲んだ気がする。「今日から勤務しているので、 何もわからないんです。」 と宣言する素朴な韓国人青年の店員を応援しつつ、 もう一杯という誘いにのって二丁目のとあるバーへ。

 

店はありがちなちょっとダサいゲイたちであふれていた。( 本当に上から目線なんですが、 私はゲイにありがちないろんな色が使われたファッションが好きじ ゃない。「ダサイロゴが入ったTシャツなんてよく着れるな、、、 」なんて思ってしまう。が、 ここではシンプルなファッションに身を固めた私は完全な部外者。)

 

落ち着いた中年40代~50代のカップルの横に腰をかける私たち 。中年カップルは大人な感じで話しかけてくれる。ほのぼの。 そこまでは楽しかった。が、問題はその後。ひたすらテンションが高い店員が横に座り、おもしろくもない話( 主に下ネタ) を延々と話すのにストレスがたまってしかたがなかった。

 

別にテンションが高いのはいい。だってそれが店員の仕事だもの。 が、話しがつまらないのは致命的。「 自分の話だけするんじゃなくて、 他人の話を引きだすのがお前の仕事だろーが!」 と酔っ払いながらひたすらむかつく。 途中から笑顔で相槌をすることにも疲れ不愛想になる私( こういうところがよくない)。

 

不思議だったのは周りの人がその店員の会話を楽しんでいるように見えたこと。私はひたすら「人生30年以上生きていてこんなことで笑えるの? こんなつまらない会話ばっかりして時間をつぶすなんて人生の無駄 。かえりたーい。ここにいるやつらみんなバカなんじゃねーの。」 なんてことを考えていた。失礼すぎ。 でも酔っぱらっていたから許して。

 

いや、別に自分が面白い話ができるわけじゃないんです。 むしろつまらない方かもしれない。 そもそも面白いと感じることは人によって違うから、 誰に対しても面白い話をすることは不可能だと思うんです。 でも自分の会話を相手が楽しんでいるかどうかってわかるじゃん。 その反応をみて話す内容を変えるって大事じゃん。 私はあんたのオナニーみにきたんじゃないんだよ!!(怒)

 

その後、アルコールによる激しい頭痛に見舞われながら、 コンビニでアイスを買い、帰宅した私は恋人に「 自分がいかにつまらない夜を過ごしたか」 ということについて熱弁した。 恋人はあきれながらもなだめてくれたが、「まあ、 そういうところに行くことを選んだのは●●君だからね。」 なんてことを言っていた。ごもっともです。

 

ゲイバーって楽しいイメージあったけど、 こういうところもあるんですね。っていうか、 歳とともに面白いと思うことが少なくなってきた自分の問題? 次行く時は落ち着いた話ができるバーに行きたいわん。 理想はマイブルーベリーナイツのジュ―ドロウのバーね。